名鉄
小牧線の昔と今
1.はじめに
最近は、目も悪くなり、遠距離は、自家用車では、少し怖い。それ故、名鉄で行ける場所は、
電車、バスで移動する場合が多くなっています。
こうして利用するようになって、この名鉄小牧線についての過去の歴史についても興味を持
つようになってきました。
以下、自ら調べて分かった事柄をまとめてみようと思い立ちました。
2.小牧線のルーツ
小牧線と呼ばれていた最初は、大正9(1920)年9月23日の開通で、開通した区間は、岩
倉〜小牧駅間である路線でありました。その当時は、第1次世界大戦が2年前に終結し、二度
とこのような戦禍をおこさないようにとこの年、国際連盟が成立した年でもありました。
この線路は、現 名鉄岩倉行きのバスが走る、桜井経由、小木、小針ルートであったようです。
その当時の小牧線の小牧駅は、現 市民会館の西側を南北に走る道沿いにあります現 JA店
と現 ヤマダ電機のある中間で、かなりJAに近い、南側辺りであったと言う。その駅舎は、粗雑
なバラック建てであったようです。もう少し詳しく言えば、現 桜井の信号機(旧41号線)を東西
に走る道で、桜井よりやや西側、市民会館西を走る南北線の交わる辺りより少し西よりから大
正9年の小牧線は、大きく東西線から曲がり市民会館西の南北道路に沿って北上して、小牧駅
(初代)へ向かっていたようであります。そして、昭和23年までは、この路線は、小牧線と呼ばれ
ていたという。後にできる大曽根線の新小牧駅と区別する為 利用者は、最初に出来た小牧駅
を西駅と呼び習わし、新しく出来た新小牧駅を東駅と呼んでいたという。
3.現 小牧線の開通
現 小牧線は、開通当時は、大曽根線と呼ばれていた。
その大曽根線を設立しようとした会社は、2社。昭和2(1927)年であり、上飯田〜小牧間を城
北電気鉄道が受け持ち、小牧〜犬山間を尾北鉄道が受け持ち、建設に着手したようであります。
しかし、その頃は、経済不況が打ち続き、用地買収も滞り、昭和4(1929)年には、2社は、名岐
鉄道株式会社に合併され、この事業は、継続されたと言う。
そして、昭和6(1231)年2月11日 上飯田〜新小牧間を開通させ、同年4月29日 新小牧〜犬
山間を開通させたのであり、大曽根線と呼称した。(現在の 名鉄小牧線であります。)
「旧 小牧線の小牧駅(通称 西駅)と、大曽根線の新小牧駅(通称 東駅)は、弱冠離れていたよう
であります。この地域で、両駅を利用する方々は、分かりやすいように、間違えないようにする為わざ
わざ、西駅、東駅と通称で呼び、区別していたようです。」(小牧の道 P.26 参照)旧 小牧線が、
大曽根線の新小牧駅に乗り入れるようになったのは、昭和20(1945)年5月1日からでありました。
大曽根線の新小牧駅(2代目)は、現 名鉄小牧線小牧駅より1筋西よりにありました。現 小牧駅
は、3代目となるようであります。この3代目 現 小牧駅は、交通渋滞解消の為に移転したようで、平
成元年より地下式の駅となっています。2代目の小牧駅の様子は、私も、利用した事はありませんでし
たが、ちょくちょく近くまで行き、見ておりますので、よく覚えております。線路沿いには、無料駐車場が
あったようでしたが、いつも満車状態、止めようにも止めれませんでした。道は、狭いし、走りづらい事
この上ないなあと思っていました。まさか、この地に永住する事になるとは、この当時露にも思ってもい
ませんでした
この大曽根線は、昭和23(1948)年より、現在の小牧線というように名称変更がされ、旧来の小
牧線は、岩倉支線と改称されたとか。その岩倉支線も、昭和35(1964)年3月には、廃止されました。
その廃止理由を名古屋鉄道株式会社は、岩倉支線は、単線であり、乗客の増加に対処し得ない事、
国道旧41号線に対する立体交差化にも多額の費用がかかる事により、バス路線への変更を計画、ま
た、現 小牧線の複線化と同時に、バス路線の停留所の増設、定時運転の確保等の要望を考慮する
という事で、合意し、岩倉支線は、廃止に至ったという。
対して、行政側の資料として、当時 小牧市政は神戸 眞市長であり、その懐刀の助役は、日沖米次
氏であり、同氏は、小牧商工会議所 つつじ 1994年 <街づくり・ふるさと百話>第78回 工場誘致
の思い出(番外編) 昇天した岩倉線(完) の文中で、以下のように述べてみえました。
神戸市長は、市議会との協議で、「あの路線の経営赤字をこちらで負担する力があるか、又は、もう一
歩進めて、9.1キロの複線化の建設費を出そうと言えば、会社側も一考するだろうが、現在では、手の
打ち様がない。何年かの後、あの線を残しておけばよかったと、名鉄が口惜しがる様に、この上の企業
誘致に努力しましょう。」と述べ、希望を持たせようとしたと。
そして、廃線路の払い下げ協定の締結であった。これは、小牧側には、埋め立てで利益を得る事が出来
名鉄側にしてみれば、煩雑な跡地整理が逃れられるという一石二鳥の解決策でもあったという。そして、「
小牧線早期複線化、昭和40年代入って着工」という覚書を入れるという締結でもあった。
なかなか小牧線複線化が実行されない名鉄に、近隣三市、特に小牧市からの申し入れを名鉄側副社長
が、うっかり「締結の覚書は、私文書ですから」と答えたという。その時、犬山市長 岡部氏が、小牧市側の
腕をしっかり掴み、「それはおかしい 副社長。」と間に入った為、大事に至らなかったという。この当時から
名鉄は合理化政策に突き進んでいたのでしょう。儲けのない路線は、ばっさりと切っていくのだと。
もし、この昭和35年以降も、岩倉支線を複線化して、運行していたのなら、岩倉〜小牧駅間も決まった短
い時間で、行き来でき、あの桃花台ピーチライナーも廃線の憂き目に会わなかったのではないかと。現在で
は、かなり便のよい交通手段となりえたでしょうに。惜しい事をしたものと今では思えるのですが・・。
私も桃花台の住民、娘も大学通学によくピーチライナーと名鉄小牧線を利用していました。どうしてJR春日
井を利用しないのだと問うと、「JR線は、混んでいていやだという。余り混まない名鉄線がいいという。」少し高
いのが、玉に傷。そして、ここが重要。上飯田から名古屋の地下鉄に乗り入れたことが乗り換えた理由とか。
私も長くここ桃花台に住んでおりますが、車で行き来出来ましたから、あまりこうした問題には、興味がありま
せんでしたが、運転できない、公共交通機関しか利用できない者にとって、名古屋へ乗換えがあっても歩かない
で行ける事は、絶対条件でしょう。そして、安いこと。
なかなか、上飯田から先の接続問題が解決しなかったのは、やはり地元の利害を代弁する代議士の存在が
あり、その上飯田出身の某名古屋市議先生が、横槍を押していたのかと、名古屋市交通局や名鉄では、太刀
打ち出来なかった筈と納得する今日この頃であります。何だか、江戸時代の新規事業を立ち上げるに際しての
依存はないかと、代官所が問い合わせて特に問題が無ければ認める式の旧態依存の慣習が、残っているよう
な錯覚をすら覚えてしまいました。鉄道は、公共交通機関であるという事、利用する者の要望が、第一義に考慮
されてしかるべき事。自明の事ではないだろうか。ピーチライナーにしても、そうした観点が欠落したが故に、廃
線化の道を歩んでしまったのでありましょう。その後の利用についてもいろいろと利用案も出ているようですが、
帯に短し襷に長しで、宙に浮いたまま放置されております。立ち退きされた養鶏場の皆さんに申し訳ないと行政
は感じているのでありましょうか。とにかく、名鉄の利用料金は、バスにしろ電車にしろ高い。これでは、JRにし
てやられる筈、それ故、桃花台住人は、JR春日井へ行くのであり、JR線は、混むのでありましょう。
変な言い方かもしれませんが、名鉄とトヨタに牛耳られている中部特に愛知、岐阜両県は、公共交通機関が、
充実しないという欠点を持っている地域なのかも知れません。確かに車は、便利ですが、逆に車が、すいすい
走れる程度の混み具合である故に、電車等の交通機関が、充実しないし、人口が少ない事も一因ではありまし
ょうか。言い過ぎかも知れません。お許しあれ。
参考文献
名古屋鉄道社史 1961 名古屋鉄道株式会社
小牧市史 資料編 2 1978 小牧市
名古屋鉄道百年史 1994 名古屋鉄道株式会社
小牧の歴史 小牧の文化財 第20集 平成17年 小牧市教育委員会
小牧叢書12 小牧の道 ー旧道を歩くー 平成2年 小牧市教育委員会
つつじ <街づくり・ふるさと百話> 小牧市商工会議所発行 1994